ユージン・スミスの水俣病を撮影した写真はあまりにも有名ですが、小さい頃から写真家を目指していたわけではないそうです。
少年の頃は飛行機を設計するのが夢で、空への憧れと飛ぶことの憧れが強かったとのこと。
そんな飛行機マニア少年だったユージン・スミスが写真と出会うようになったきっかけは、小型機やグライダーなどのスピードレースの写真を手に入れるためにニュースカメラマンの後をついて回るようになったから。
後をついて回った地方新聞のカメラマンと繋がりを持つようになり、次第にカメラにも興味が。
ついには地方新聞のカメラマンにカメラを売ってもらい写真を撮影することに夢中になっていったユージン・スミス。
自分のカメラを手に入れてから半年後には、なんと新聞のニュース写真を自ら撮影するまでになりました。ユージン・スミスが14歳のころの話です。
14歳の頃から報道写真の世界に入り込んだユージン・スミス。
彼がドキュメンタリー写真家になるのは既にこの時点から必至だったのかも知れませんね。
水俣病のことを世界に知らしめた有名な写真。
母親が水俣病に罹った娘を風呂に入れる写真は彼の代表作の一つで、あまりにも有名です。ユージン・スミスは現地の人と近づくために漁師の仕事を撮影することからはじめ、手持ちの金が尽きるまで水俣に入り込んだ結果に撮影した写真。
その努力の結果生まれた写真は、まさに報道写真でありドキュメンタリー写真の代名詞となった強烈な写真でした。
その彼が放った言葉が
「報道写真とは目的をもったドキュメンタリー写真だと思う」
この言葉は以下のように続きます。
「ドキュメンタリーという言葉の唯一の欠点は、対象の心ではなく、対象の内容物の退屈極まりない写真を撮っていいのだという印象をこの言葉から受け取る人々がいるということだろう」
深く心に刻もうと思う一言です。
ウィリアム・ユージン・スミス(William Eugene Smith、1918年12月30日 – 1978年10月15日)は、アメリカの写真家。1957年から世界的写真家集団マグナム・フォトの正会員。 ユージン・スミスの写真の特徴は、「真っ暗闇のような黒とまっさらな白」のメリハリである。そのメリハリは、妥協を知らない徹底した暗室作業によって作り出された。 |
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